電子サンプル

左目の幻 から抜粋


 踵の下で、土が崩れていった。断崖の上だ。谷底は遥か下、目が眩むどころか、足が竦み、身体は震え、ただ立っているだけでも谷に飲込まれそうな高さだ。
 その崖の上、俺は谷底に背を向けて、もう一センチも後のない状態で、立っていた。
「俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ」
 俺はそんな台詞を目の前にいる男に投げつける。だが目の前の男は何も答えない。黒いフルフエイスのメットをかぶっているため、表情すらわからない。俺をここまで追い詰めた男は、ただ、崖から突き落とすタイミングだけを計っているようだった。
 吹きつけてくる強風に髪が踊る。それが煩わしく、一瞬気を散らしてしまった。
 とたん、男の手が俺の肩にかかった。とっさに男の手を払おうとしたが、遅かった。突き落とされまいとふんばるのが精一杯だ。踵が半分以上崖の上からはみだし、足元の土がごっそりと落ちていく。もう、どう足掻いても落ちてしまうだろう。だが、このままでやれらはしない。俺だけ落ちるなんてごめんだった。
 こうなりゃ道連れだ。
 俺は男の腕を掴み、背から宙に身を投げ出した。そのまま抱き合うような形で俺達は崖を転がり落ちて行った。
 そこでカットの声がかかり、俺達は命綱にぶら下がり、無事崖を這上がって行くはずだった。 
 ドラマの撮影だ。俺、幻田忍の左眼失明後の復帰第一作のクライマックスシーンの撮影だった。それが……。             
 アクシデントが起きた。俺の命綱が切れたのだ。
 迫真のスタントで崖を転がっていた俺は、勢いを止めるものもなく、転がり続けた。視界が何度も回り、顔や肩や、身体のあちらこちらに、自分が転がるたびに弾けて飛ぶ小石や土が当たってくる。
 止まらない。滑り続ける。このままどこまで行っても止まらないのではないかという恐怖が、いや、恐怖よりも焦りが俺の心を支配する。もし止まる時があるとすればそれは……。
「掴まれ!」
 そんな声と一緒に目の前に手が差し延べられた。俺はそれを認めるやいなや引っ掴んだ。身体の落下はそれでなんとか止まったが、汗で滑りそうだった。

左目の幻「幻の映像」から抜粋
このあたりとかこの辺からダウンロードできます。


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